5.21.2011

空文

冥福とは冥土における幸福のことで、死ねばもれなく極楽浄土に往生できるという考えの浄土真宗では「ご冥福をお祈りいたします」は意味が無いだけでなく、下手したら侮辱に当たるから避けるべきとのこと。確かに「冥福」という表現は魂が浄土でないどこか暗い世界(=冥土)にある前提だから、考えてみればさもありなん。城島とかつんく♂とかが亡くなった暁にはくれぐれも冥福は祈らないようにしたい。門徒は結構多いから気をつけよう。

というか、自殺した人間について報じる時に「ご冥福をお祈りいたします」という結びはどうなのかなあと昼休みのランチ中にテレビを見ながらふと感じる。
死んだ後も魂とやらが残って生前の自我や意識がそのまま継続するのであれば、とくに衝動的に自殺してしまった者のそれはもう後悔100%といって過言ではないだろう。まともな判断力が残っているのであれば文字通り死んでも死に切れない後悔が永遠に続く世界。幸福になどなれる訳が無いではないか。
にもかかわらず幸福を感じるのだとすれば、それはもう何かクスリでもやってラリっちゃってるか、幼児レベルにまで知能が後退して思考力を喪失しているか、重度の認知症で恍惚の人になっちゃってるか、いずれにせよ生前の人格が継続しているとは考えられない。でもそれって幸福か?

あの世の魂はもれなくボケちゃってるか永遠のラリパッパ状態という世界観ならともかく、そうでもないなら自殺者について語るときは魂の継続とか死後の世界とか、そんなものは無いという事にしておいた方が本人の為ではないか。心を満たす後悔や自責の念その他諸々を克服して(しかも肉体は無いので行動によってではなく、専ら思考のみで)幸福に到達するのはどう考えても相当困難な事なので、楽になりたい逃げたいという一心で首を吊った人間には弔いの言葉どころか追い討ちにしかなっていないように思う。死んで全てが無に帰したという前提で語る方が本人の意には沿っている。
「天国でお母さんと仲良くしてください」なんてコメントは、よくよく考えてみると鬼だよな。

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